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-新潟県・岩船広域情報センター用シナリオ(第一稿)-

●ナレーション・加藤博久●

「奥三面・縄文の空」
〜ダムに沈んだ遺跡群〜


沼澤茂美

20010719



村上市昼景スカイライン
日没>薄暮>星空


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降るような星、


太古の人々は、このような「満天の星」と呼ばれる星空を見ていたに違いありません。

 地上の明かりのない時代、月の無い夜は天に輝く星々の美しさに見とれ、そこに様々な思いを巡らしていた事でしょう。


 私達が知っている数々の星座も、このようなところで生まれてきました。

 紀元前4000年頃、メソポタミア地方に放牧をして暮らしている人々がいました。
 夜になると天を覆う星々の並びに身近な動物を当てはめていったのが星座の始まりとされています。

 ライオンやさそり、そしてへび。
 [図]これらの星座は最も古いものとして今日まで残っています。


 四大文明の一つ「メソポタミア文明」。ここは星座の発祥した場所としても知られています。


 少し遅れ、1500キロを隔てたナイル川のほとりにはエジプト「文明」が誕生しました。
 いまだに天をついてそびえ立つピラミッドには多くの謎が秘められていますが、とりわけ、星々との関係は様々な人達によって研究されてきました。

 一方、遠く離れた中国の揚子江のほとりには中国文明が誕生し、インドのインダス川のほとりにはインダス文明が芽生えました。


 これらの古代文明とともに最初に発達したのは、医学と天文学だったといわれています。
 天文学は星の動き、太陽の動きを正確に測定し、暦を作ったり、未来の現象を予言することを可能にしました。

 真昼の太陽が欠けて行き、突然闇が訪れる「皆既日食」。地上で最も劇的と言われる現象は、当時の人々に想像以上の動揺を与えたに違いありません。

 定住生活を営む上で暦の存在は不可欠ですし、天文現象の予言は指導者の権力を民衆に知らしめる大きな効果がありました。


 太陽・月をはじめとした天体の運行を正確に予言したとされる遺跡で最も有名なものが、イギリスのソールスベリー平原にあるストーンヘンジです。

 いまから3000年前とも4000年前とも言われる太古の昔に作られたとされるストーンヘンジ。完成された頃の姿を復元してみました。
 直径30mに配置された巨大な石、サルセン・ストーン。
 その内側を取りまくブルー・ストーン、
 外周の土が盛られた部分の直径は100mに及びます。

 これらの石の配置を利用することで太陽・月のカレンダーを始め、日食や月食の予報も行うことが出来たと言われています。


 エジプトのカルナック神殿もまた、日の出、日の入りの方位を観測した形成があるとしてよく知られています。
 その関係を最初に指摘したイギリスの天文学者ノーマン・ロッキャー。
 彼はその著書で「天文学の発祥は古代文明の誕生と切っても切れない深い絆で結ばれている。」と主張しています。

 彼によって紹介された古代エジプト人の天体運行の知識は驚くべきものがあります。
 エジプトでは天体観測を行う専門の役職があり、暦と時間を管理していました。
 1年が365日であることを知っていましたが、より正確に月日を特定するために、星座が昇る時刻を正確に示した星時計というものを使っていたと言います。


 ロッキャーの言うように、
 世界に分布する多くの古代遺跡、そこには太陽、月、そして惑星や星々を観測した痕跡が見つかっています。


 中央アメリカで西暦600年前後に栄えたマヤ文明の都市の一つチチェン・イッツァの遺跡には、正確な天体の位置を測定したと見られる天文台「カラコル」がありました。
 マヤ人は一年が365.2420日であることを知っていただけでなく、金星の動きを示す金星カレンダーをも作っていたのです。

 1300年頃栄えたアステカ文明。暦石と呼ばれる巨大な石の円盤はアステカの世界観とカレンダーが示されています。


 アジアに目を移すと、
 9世紀頃建造されたジャワ島のボロブドール遺跡。
 この巨大な仏教寺院は稲作りのためのカレンダーに利用されていたとの考えがあります。

 カンボジアのアンコールワットもまた、列柱を利用して春・秋分、夏至、冬至の日の出日の入りの方向が特定できると言われています。


世界最古の四大文明が栄えた頃、日本は縄文時代の早期を迎えていました。
 土器や土偶が作られはじめ、独自の集落が作られていたのです。

 以前は狩りをしたり魚介類や木の実を採集したりしながら粗末な動物の皮をまとって生活していたのが縄文人のイメージでした。
 しかし、最近の10年間でその姿は大きく変わってしまいました。
 特に、青森県の三内丸山遺跡の発掘は縄文人についてのそれまでの常識を根底から書き換えるものでした。
 高さ8mの御柱を配した巨大なモニュメント、
 長さ30mの家、100軒にのぼる人家が集まった巨大な集落、

 そして、栗などの栽培。高度な技術。


 北海道の函館にある中野B遺跡に置いては、600軒を越えるほどの大集落が発掘されています。

 発掘される多くの縄文遺跡。それらの集落は1000年以上もの長期にわたって、同じ場所に存続していたこともわかってきました。


 私達の郷土に置いても、古代史のページに深く刻まれることとなる広大な縄文遺跡が発掘されたことは記憶に新しいことです。


 奥三面遺跡は岩船郡朝日村の山中、朝日連峰を源とする三面川の上流に位置します。


 奥三面と言う通称で呼ばれたこの地には、旧三面集落があり、

42戸、120人の人々が自然の恵みを享受しながら独自の生活文化を守り続けていました。

 1985年、県営奥三面ダムの建設のために、奥三面は長年続けてきた山の生活に幕を下ろすことになります。

 同時に開始された大規模な発掘調査。

 その結果、人々は奥三面の生活文化の歴史がはるか2万5000年以上の長きにわたって存続してきたことを知り、驚愕しました。


 奥三面遺跡群の分布です。


 旧石器時代の樽口遺跡。

 黒曜石を細工した石器などが発掘されました。


 前田遺跡。

 縄文時代中期の村で、21軒の竪穴式住居跡が見つかりました。

 下窪(したくぼ)遺跡。

 縄文時代中期。住居の数は46。

 アチヤ平遺跡。

 上段部分には40軒の住居跡が見つかり、床に石を敷き詰めた住居も発見されました。

 最も下流の下ぞり(しもぞり)遺跡。

 沼の沢遺跡は縄文時代に利用されたほか、古墳時代の遺物も見つかりました。


 元屋敷遺跡は、奥三面遺跡群の中では最大のもので、縄文時代の終わりまで続いた大集落です。

 

全国で始めて見つかった舗装道路。

 

直径12mの巨大な竪穴式住居。

 
岩をくり貫いて作った水場。

 
とちの実の加工施設後。

 

乳幼児の墓。

 

様々な土偶。

 
そして、装飾品。

 大小19を数えるこれらの遺跡の発掘は縄文時代をはじめとした古代史を研究する上で大変重要なものとして注目されています。

 旧三面集落の川向かいに見つかったアチヤ平遺跡。その上段にあった環状配石です。

 直径6mに並べられた巨大な川原石(かわらいし)。
 復元してみると、いくつかの長い石は直立していたと思われます。
 実際にその石を間近にすると、とても巨大で整った形をしていることが分かります。
 配石が重要な意味を持つことが実感できます。
 当初、これは日時計、あるいは特定の日の出方向を示す施設であると想像されました。


 夏至の日の日の出実験も予定されましたが、残念なことに、関連性は見いだせませんでした。


 縄文時代の中期から後期にかけての限られた時期に、北海道から東北の広い範囲でストーンサークル、環状列石が多く作られたことがわかっています。

 最も有名なものは秋田県の大湯遺跡です。


 ここには、「野中堂環状列石」と「万座環状列石」という2つのストーンサークルがあり、いずれも「日時計状組石」とよばれる特殊な組石が立っています。

 50年ほど前から、この環状列石が太陽の運行に関係していると言われ、現に2つの組石を結んだ方向は夏至の日没方向をさしていることがわかっています。

 小樽近郊の忍路(おしょろ)環状列石。
 この付近には大小80基に及ぶストーンサークルが見つかっています。


 岩手県の樺山遺跡は、大湯遺跡の日時計状組石に似たものが多数見つかりました。

 青森県小牧野遺跡、外側の直径が35mあり、中央にも石組があります。

 墓地として作られた説と祭りを行う「祭礼場」説がありますが、天体との関係は見出されていません。

 石川県真脇遺跡は木で作られた環状木柱列が発見されています。


 奥三面、アチヤ平遺跡の環状配石。
 これが作られた本当の理由は何だったのでしょう。 

 天体の動きとの関係を調べる上で、主に、3つの仮説が考えられました。


 1つは日時計

 もう1つは天体の位置を測定する観測施設

 そしてカレンダー

 日時計説は立ち石が太くたくさんあること短くて時計の働きと向いているということで消えました。

 

 観測施設説も、石が短く、人の目線で利用するのが困難なことが想像できます。
 それに、当時の太陽、月、明るい星の位置を計算しても関係性は見いだせませんでした。


 残ったのはカレンダー説です。

 永く同じ場所に住み続ける定住生活では、季節や気候の変化を把握することが重要になります。
 カレンダーか、あるいはそれに相当する何らかの方法を用いていたと考えるのは自然なことだと思われました。

 私たちが使っているカレンダーを丸くすると、毎年繰り返し使えるサークルカレンダーになります。


 環状配石とカレンダーの関係は見いだせるのでしょうか。

 アチヤ平の環状配石を上から見た図です。


 細長い石が立っていた位置。


 その内側には12個の平らな石が並んでいます。

 円形のカレンダーとそれを結びつけるものは、アチヤ平からみた奥三面のとくいな地形にありました。

 
 かつてのアチヤ平の様子です。


 東と南そして北がよく開けています。

 注目したのは、1年の日の出の位置でした。
 

 最も北から太陽が昇る夏至、


 そして谷から出る頃、この方向には神聖な存在と思われる大朝日岳が見えました。


 太陽はさらに南に向かって動き、


 そして一番南の冬至。


 こんどは北に向かって移動し、

 谷を通りまた夏至がやってきます。

 ここで驚かされるのは、山の形のために夏至の前後の日間はほとんど日の出時刻が変化しないこと、

 また、9月29日に樽山(たるやま)のヘリから出た太陽は次の日からは極端に日の出が遅くなってしまうということです。
 
 一気に日の出時間も日照時間も少なくなりそれは4月の14日頃まで続きます。


 これらの極端な日の出時刻の変化は、生活に大きな影響を与えたと思われます。


 日の出位置から考えられた特定の日をサークルカレンダーにしるし、夏至を北の方向に合わせて環状配石に重ねてみました。

 
 かなりの精度で一致することが分かります。


 夏至の日の方向が真北からずれている点については、当時の星空を再現してみる必要がありました。

 

 現在の北極星は、この「こぐま座のポラリス」です。

 時間をさかのぼると、
 地球の地軸の方向、つまり「天の北極」の方向は、この歳差円に沿って動いてゆくことがわかります。


 今から4000年ほど昔、ストーンサークルが沢山作られた頃は、今とはかなり違った星空が見えていたことになります。

 北極星はこの星こぐま座のベータ星です。

 

 縄文時代の夏至の日の出前、まだ星が輝いている早朝に北極星を見ると、それは天の北極から4.5度西に位置しています。
 
環状配石の夏至の位置に相当する石の方向のずれはおよそ4.5度。
 つまり、当時の北極星の方向に一致します。

 もう1つ、カレンダーの根拠をあげるとすれば、内側に並べられた12枚の平たい石です。
 12枚あり、1カ所だけが少し広く空いています。
 これは月の満ち欠け、つまり、1年が12ヶ月と11日あまりといった数値に一致します。


定住生活を営んでいた縄文の社会では、カレンダーの必要性は高かったはずです。


 立ち石の位置と日の出位置の関係、北極星のずれ、月の満ち欠けを示す12枚の平石。

 これらは、アチヤ平の環状配石の意味を考える上で合理的です。

 もし、それが事実であれば、奥三面の縄文人達は三面の特異な地形を巧みに利用し、景観や信仰、食料以外の科学的な恩恵を受けていたと言えます。

 


 4000年昔のアチヤ平。
 当時の星空を再現してみると、今は見ることの出来ない南十字星が輝いていたという事実が分かります。

 山間部では珍しく開けた南の谷間(たにあい)
人工の光のない漆黒の星空に、それはまばゆいばかりの美しい光を放っていたことでしょう。


 奥三面の4000年昔の空。
当時の人々は、この空に何を思い描いていたのでしょう。

  2000年10月2日、
 県営奥三面ダムに試験湛水が開始され、およそ1ヶ月を経過して、ほとんどの遺跡は水中に没しました。

 後世に伝えなければならない貴重な遺産。

 ダム建設で開始された遺跡調査は、皮肉にも、2万5000年の昔から人々が暮らしていた事実を示すこととなりました。
 
 豊富な自然の恵みに抱かれて、そこに共存してきた人々、卓越した生活の知恵、

(三面ここにありき)
 ダム湖岸に刻まれた言葉は、この地に生きてきたすべての人々の思いにちがいありません。

 

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