TAINAI STAR PARTY









T
he History of Tainai Star Party
胎内星まつりの歴史


沼澤茂美



2002年7月号・米スカイ&テレスコープ誌掲載原文の日本語訳


 アメリカで有名なテキサススターパーティーやステラフィンのような天文ファンのための星イベントは、日本では、著名な天体写真家である藤井旭氏によって1974年始められました。藤井旭氏の星祭り「星空への招待」 は、8月の初旬に、福島県吾妻山の標高1500メートルの国立公園(東京から北に200キロの距離にある)で開催されました。それは日本各地から2,000人のアマチュア天体ファンを集め、大成功を収 めました。ここでは、自作望遠鏡の品評会などが行われ、まさにアメリカの星イベントを彷彿とさせるものがありました。1977年、私は、自作した重さが150キロほどの155ミリ反射赤道儀望遠鏡(155mm Equatolial teleescope) をトラックに積んで、初めてそのイベントに参加しました。そしてそれ以降、私と友人は、藤井旭氏の星イベントに魅せられて毎年参加するようになったのです。
 やがて、私たちは、そのイベントでボランティアとして様々な手伝いをするようになります。それは、私たちにとって、その星イベントをさらに楽しいものにしました。
 しかし、1984年、藤井氏は今年でこのイベントを終了すると発表しました。(理由は公式には発表されていません。) 国内で最も優れた、そして最も愛された星祭りの一つだ ったこのイベントのファンにとって悲しい日となりました。



胎内星祭りの誕生

 藤井氏が、星祭りの運営を終了する頃、私はいつか自分自身でも星祭りを行なって みたいと考えるようになりました。新しい星祭りのロケーショ ンも固まっていたのです。新潟県黒川村「胎内」-----東京から200マイル北に位置 するこの地は、毎年8月、友人たちとペルセウス座流星群の観測を楽しんだ場所でし た。山々に囲まれた美しい丘の上にあるその公園は、当時は真っ暗な夜空に天の川をはっき りと映し、また、何千人もの人が集まることも可能でした。

 最初に考えていた星祭りのビジョンは、藤井旭氏の星祭りの模倣でした。星の好きなアマチュア天文ファンの集いにしたかったのです。
このような大規模な企画が、自分だけの力では運営できないと承知していた私は、こ の計画を、天文ガイド編集部(日本有数の天文雑誌の編集部)に持ちかけました。彼ら は計画に賛同し、こころよく運営サポートを引き受けてくれました。そしてすぐにア マチュア天文家にへの広報に関する手 助けを行なってくれました。

 1984年5月、私たちは、電話でアポイントをとって黒川村役場の商工観光課を訪れました。このイベントを恒例行事にす るためには、開催地である黒川村の運営参加が必要と考えたのです。個人やボランテ ィアによって組織されるこのようなイベントは、個人や組織のみが利益を受け、町や 村の利益につながらない場合、問題が生じうるということを経験から学んでいまし た。
それ以上に心配だったのは、いわば天文の「クラブ」によって主催されるイベント は、とかく閉鎖的になりがちであるということでした。それは私の意図するところで はありませんでした。アマチュア天文家の要望に答え、同時に村にも貢献しなければ恒久的なイベントは難しいと考えました。
 
 私たちが黒川村役場を訪れた時、最初に商工観光課課長の安城栄三郎氏ら数名が対応してくれました。
当初、黒川村役場のみなさんは私たちとどう関わったらよいのか見当が つかないようでした。星祭りが何であるかさえ知らなかったのは当然なことです。しかしそれは容 易に解決しました。星祭りが村の主催であることを広告させてもらえさえすれば、天 文ガイドと我々が全ての準備、運営を行なうことを伝えると、彼らは私たちの申し出を快く受 け入れたのです。わたしは、このときの村の決断に感謝しています。

 第一回の星祭りは、私の大きな計画のいわば縮小バージョンで行なうことに全員の同 意を得ました。実験を試みたというところです。それは1984年、8月下旬と決定 し、一夜のみのイベントとしました。天文ガイドスタッフは雑誌に広告を載せ、望遠 鏡製造者、販売者に参加を呼びかけました。それは野望の無い、まさに手作りの星祭 りでした。
この初めての星祭りの参加者は200人ほどでした。しかし皆大いに楽しんだことは 明らかでした。祭りの司会者として、落語家の柳家小ゑんさんを招き、(落語家とは 日本伝統のコメディアンを言う)彼の楽しいオークション大会は特に人気でした。業 者から寄贈された望遠鏡やその他商品のオークションは現在も彼によって行なわれて います。結果的に祭りは成功し、アマチュア天文家たちは星を眺め、展示された最新 の望遠鏡を試し、翌日陽が高く上るまで交流を楽しみました。

1984年・第一回胎内星まつり記念写真(胎内パークホテル前)

 1985年、第2回の星祭りは、天文ガイドスタッフにより大々的に広告が行なわれ ました。彼らはまた、参加者は楽しむためにやって来るのだから、祭りにより娯楽性 を持たせるべきだと考えました(彼ら自身も楽しみたかったのです)。そこでロックバンド参加の案が浮かんだのです。祭 りの期間も一晩から二晩に延長になり、今日まで続いています。これらの努力の結 果、翌年の1985年には1000人、その翌年には2000人の参加者を数えました。

 1985年、86年といえば思い出に残るハレー彗星出現の年でした。この時期、天 体への興味はにわかに高まりを見せ、多くのアマチュア天文家たちが夜空の照明の害 に気づき始めました。残念なことに日本のアマチュア天文家の中には極端に走る人たちが現れ始めま した。駐車場にやって来る車のヘッドライトを消すように怒鳴ったり、自動販売機が 明るいと電源を引き抜く者もいました。彼らは自分の行動の間違いに気づきませんでした。これらの行動は、明るくなりつつある(条件が悪化しつつある)日本の星空を改善する何の役にも立たないどころか、天文ファンの存在を孤立させるものだと心配されました。

 ハレー彗星の熱狂がさめた後、私は星祭りを単にアマチュア天文家だけでなく、子供 から大人まで家族皆で楽しむことに焦点を当てたイベントに変えていくことに決めま した。星への興味を高めてもらうには、一般市民の家族、友人との祭りへの参加が一 番ではないかと考えたのです。これらの試行錯誤により胎内星祭りは毎回、年を追う ごとに盛大さを増して行きました。

 5年が経ち、胎内星祭りは黒川村で最大の集客を持つイベントになりました。現在は3日間ののべ参加人数は2万人ほどとなりました その時から村と祭りとの本格的な提携が始まり、それぞれの責任分担も決まってい きました。祭りの公式主催者として、村が会場、展示、及び光熱費を負担し、天文ガ イドには広告サポートが任され、そして自社であるJPL(日本プラネタリウムラボラトリーinc.)は祭りの企画、運 営にあたることになりました。このようなしっかりとした協力体制が星祭りの将来の 展望へとつながっていったのです。それは今日まで継続され、今年2003年、星祭 りは20周年を迎えようとしています。


にぎわいを見せる恒例のオークション


現在抱える問題

 現在私たちが抱えているのは、この成長し続ける大イベントの費用の増大の問題で す。星祭りは開催当初からその多くをボランティアの協力に頼ってきました。[ボランティアの数はおよそ20名です]
そのお礼として、食事、宿泊代を、祭りの寄付金、オークション、そして展示物(私 のデザインしたポスターやTシャツなど)の収益金によってまかなってきました。し かし近年の日本経済の低迷により、ボランティアへの予算を減少せざるを得なくなっ ているのが実情です。経済の悪化は主催地、黒川村の予算にも影響を与えています。
 現段階での解決策として、商品展示者からの展示料の徴収の案があります。今まで展 示は全て無料で行なわれて来ましたが、星祭りを継続させるため、あらゆる手段を講 じ、協力を求める必要があります。それが参加者たちの願いでもあるのです。


 もう一つの問題は、20年に及ぶ貢献から、スタッフの年齢が高くなってきているこ とです。イベント開始時、私は25歳の青年でした。会場まで裸足で会場を駆け抜けて いた私も、今では、プログラムが私を必要とせず進行してゆくようになったにもかか わらず、歩く前からもう足にマメができている状態です。若者たちから星祭りの聖火 を引き継いでもらうことが私たちのもう一つの課題です。

 そして「時間」という問題です。イベントが拡大するに連れ、より多くのスタッフ、 ボランティアの時間が必要となっています。JPLの同僚である、脇屋奈々代さん と二人で、準備に関する書類手続きだけで約一週間もかかるのです。毎年悔やまれる ことは、時間に追われ、参加者、特に海外から見えられる方々とゆっくり話をする時 間が持てないことです。それでも彼らの多くが祭りを楽しみ、帰り際に「楽しかっ た。また来ます。」と言うのを聞くと大変嬉しく、それが次回への活力となります。

 今後、胎内星祭りはその内容を変えていくことになるかも知れません。胎内の美しい 星空を楽しんでもらうためにできることを模索して行かなければなりません。胎内が その美しい夜空で世界中の人々を結びつけるであろうことはまちがいないと私は確信 しています。そしてそれが胎内星祭りの目指すものなのです。

2002.1.8 
原 文:沼澤茂美
英語訳:Akira Banch(Banchi Picture), Yoko Suzuki
リライト:Stephen James O'Meara

本稿の作成に協力くださったみなさんに感謝申し上げます。---沼澤茂美



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